はじめて(前編)
ある日のこと。
セイランが学芸館に帰って来ると、
階段をものすごい勢いで駆け下りてくる音が聞こえた。
「・・・また面倒なことが起きたのかな?」
もっと静かな時間を送りたい、そう願いながらもここにいる限りは
訪れないと知っている。
今は女王候補の教官として聖地にいるのだから。
セイランは立ち止まり、足音の主が現れるのを外で待った。
間もなくそこに、アンジェリークが飛び出してくるはずだからだ。
セイランの予感通り、栗色の髪のアンジェリークが、前も見ずに
学芸館からすごい勢いで飛び出してきた。
わざとセイランは彼女の通り道に自分を置いていたので、
見事にアンジェリークはセイランの胸に突進した。
アンジェリークが反動で倒れないように、そっとセイランが支えてやる。
「きゃぁっっっ!!! ・・・あっ、セイラン様!!??」
バラバラとアンジェリークが抱えていた教材が地面に落ちる。
華奢に見えるセイランだが彼女のスピードでも倒れることなく、
そっとアンジェリークを見た。
アンジェリークの瞳は赤かった。涙で充血している。
頬には幾筋もの涙の後があり、心なしかしゃくり上げていた。
セイランの視線を受けると、恥ずかしそうにうつむいてしまう。
「ティムカと何があったんだい、アンジェリーク?」
聞くまでもなく、相手がティムカであることを察した。
セイランは、最近の彼女が自分よりもティムカの部屋に、
よくいることを知っていた。
勉強のために訪ねてくるというよりも、おしゃべりでもしにきているようだ。
それはヴィクトールとも意見が一致している。
自分たちのところ来るよりも、ティムカの方が多い、と。
別にティムカに妬いているわけではないが、
彼女たちの育成に支障があっては自分の身に余計なことが降りかかる。
「僕に話してくれないかな? そんなに泣いているんじゃ気にならない方がおかしいよ」
アンジェリークは手の甲で溢れる涙を拭いながら、セイランに話し始めた。
「ティムカ様が・・・ 子供扱いしないでくださいっておっしゃって・・・」
「子供扱い? おかしいね、そんなことを言うような子じゃないはずなんたけど?」
いたずらっぽくセイランがアンジェリークの瞳をのぞき込んだ。
きっと君が何か言ったんだろう、という意味を込めて。
するとアンジェリークは視線を地面に落としながら話し始めた。
「この前、ティムカ様に童話の本を差し上げたんです。
そしたら喜んで下さって。それで、ティムカ様ってかわいらしいですねって言ったら・・・」
「・・・なるほどね」
ティムカにとって、かわいらしいという言葉は嫌だったのだろうか。
「私・・・ ひどい事を言ってしまったみたいで・・・ひっく・・ど・・どうしましょ・・・う・・」
ぽとりぽとりと、地面にアンジェリークの涙が落ちていく。
セイランは、困ったねとつぶやくと、彼女の心を落ち着かせるように軽く背中を叩いた。
「そんな弱気でいてどうするんだい? 君は、未来の女王になるんだろう?」
「でっ、でも・・・」
まだしゃくり上げるアンジェリーク。
仕方ない、というように盛大なため息を一つしてからセイランは、
アンジェリークの顎に手をかけて、くっと上を向かせた。
涙に潤むアンジェリークの瞳と、自分の視線がちゃんと合わさるように。
そしてもう一方の手で、溢れ出す両目の涙を拭ってやる。
「いいかい、僕がティムカと話しをするから。もう君は泣かないでくれ。
女の子の涙は美しいけど、いつまでもウジウジする涙は醜いから。分かったかい?」
アンジェリークはセイランの優しさにほんのり頬を赤らめながら、こくんと頷いた。
セイランはアンジェリークと別れると、どうしたものかと考えながら、
ティムカの部屋へと向かった。
ノックをするとティムカからの返事がなかった。
いつもなら歯切れのいい、元気な返答があるはずのだが。
おかしいと思いながらノブに手をかけようとしたとき、ドアは内側から勢い良く開けられた。
顔に当たらないようにセイランはぎりぎりで避けたが。
「アンジェリークッッ!!! ・・・じゃなかったですね・・あは・・・ははは・・」
頭を掻きながら照れくさそうに笑うティムカに迎えられ、セイランは彼の部屋に入った。
「きっと・・・、セイランさんはご存知なんでしょうね、僕たちのこと」
セイランが腰掛けると同時ぐらいに、ティムカが話しかけてきた。
「ああ、知ってるよ。ついさっきまでここに座っていた女の子を泣かせたことだろう?」
「はい。・・・そのことなんですが」
ティムカは机の上にある本を取り上げた。
きっとそれがアンジェリークから贈られた童話なのだろう。
可愛らしい絵の表紙だ。装丁もきれい。
「僕、童話が大好きだっていうお話を、アンジェリークにしたんです」
「ふーん、いいことじゃないか」
「でっ、でも、童話が好きだなんて、なんだか子供っぽくて・・・」
恥ずかしげにうつむくティムカ。
「童話を子供のための本と決めつけるのは良くないことは分かっています。
でも・・・」
ティムカは寂しそうにセイランを見た。
「僕、分からないんです。アンジェリークに童話の本をプレゼントしてもらえて
嬉しいのに、それなのに、なぜか悲しくて・・・。心が苦しくて・・・」
「苦しい、ね・・・。ふーん」
セイランは今にも泣き出しそうなティムカから目を反らし、
少し間をおいてから、天井を見上げてぽつりと呟いた。
「うらやましい」
「・・・えっ? セイランさん、今なんておっしゃったんですか?」
「いや、聞こえなかったのならいいよ。僕の呟きは二度も言うことはないから」
そしてもう一度、ティムカのことをまっすぐに見返して言った。
「君はなぜ悲しいんだい?」
「それは・・・。上手く言葉には表せませんけど・・・。
子供っぽく見られたのかと思って」
「でも、君は実際子供だよ。言わせてもらえば、アンジェリークも子供だけれど」
くすっと笑ってからセイランは続けた。
「君は、アンジェリークにどう思われたいんだい?」
「?? どういう・・・意味ですか?」
「おや? 分からないのなら質問を変えようか?
君はアンジェリークのことをどう思う、にしてもいいよ」
いたずらめいた微笑が口元にあるセイランを見て、ますますティムカは顔を赤くした。
「そ・・・それは・・・」
「珍しいね、口ごもるなんて。でも、それぐらい答えづらいのかな?」
「いいえ、答えづらくはありません」
ティムカは意を決するように短く息を吐き、姿勢を正すとセイランに向かって答えた。
「僕は、アンジェリークのことが大好きです。
とても大切な人だから、守ってあげたいんです。頼られたいんです」
「頼られたい、か。すると、子供扱いは心外だろうね。でもね」