想い人


内裏の中に澄み渡る笛の音が響く。
法衣を纏った長い髪の青年が奏でるその音色は、
聴く者すべての足を止めさせ、そして魅了する。
澄み渡る音色故に、心の中も涼やかにされる。
まるで、清涼な川辺に立っているかのように。
水の癒しが体の中に染み渡る。
聞く者はみなそう感じた。

 

「いつもながら、おまえの笛を聞くと心が洗われるような思いがするな、永泉」
そう呼びかけたのは帝。
京を統べる人間であり、呼びかけられた永泉の兄でもある。
そして弟である永泉は、はにかみながら首をゆるやかに振った。
「私には笛を吹くことぐらいしか取り得がありません。
 それでもお上のお心を静めるお役に立てるのでしたら」
永泉の返事に少しだけ帝の顔が曇る。
「お上・・・か。昔のように呼んではくれぬのか」
「・・・えっ」
「いや、なんでもない。聞えなかったのならばそれでよい。
 永泉。おまえも今は『八葉』の一人。
 ただの僧侶ではない。おまえには京を救う力があるのだ」
「はい。・・・しかし、なぜ私のような者が選ばれたのでしょう」
今度は永泉がうつむいてしまう。
「私のような、何の力もない人間が選ばれたのはなぜなのでしょう」
口元に持っていった手。不安げに震えるその指先を帝は見た。
「何を言っているのだ。おまえだからできる勤めなのだ」
「私だから・・・ですか?」
「そうだ。おまえは私と違い、物事の根底を見極め、その中心に触れることができる。
 御簾や内裏などという邪魔なもののない、
 本当の京の姿を知ることができるのはおまえしかいないのだ。
 そのことを忘れてはならないぞ」
「・・・はい。分かりました」
姿勢を正すと永泉は言った。
「これからも帝のため、精一杯頑張りましょう」
「うむ。・・・あまり危険な目に遭わせたくはないのだが、頼んだぞ、永泉」
「はい」
「そういえば、もうすぐおまえの誕生日だな」
「・・・あ、そういえばそうでした。ここのところ、八葉の勤めですっかり忘れていました」
「ところで、つかぬことを聞くが。おまえには想い人はおらぬのか?」
「想い・・・人ですか?」
ぼうっとしたように復唱した後で、永泉は顔を真っ赤にして頭を振った。
「そっ、そんな方はおりません。それに、私は出家した身。
 どなたかを想うなど、まだまだ修行中の私にはできることではありません」
「しかしな、永泉。何かを護る気持ちが強ければ強いほど、
 それは時としておまえの力となるのだ」
「力ですか?」
「そうだ。思い人を護りたいと願う心こそ強き力を生むのだ。
それでは今一度聞くが、おまえが京を守ろうとする時に心に
浮かぶ者はいないのか?」
「それは・・・」
永泉は己の心を見つめるように瞼を閉じる。
心の内を思いの中で掘り下げていくと、一人の人物が浮かび上がってきた。
神々しい光に包まれ、すべてを優しく慈愛の眼差しで見つめる。
あの人の姿が・・・。
その瞬間、ぶるっと体を震わせて永泉は勢いよく立ち上がった。
「申し訳ありません、お上。私はこれにて失礼致します!!」
数珠を拾い上げると挨拶もそこそこに永泉は帝の前から立ち去った。

「随分と永泉様に詰め寄られていましたね」
永泉と入れ替わりぐらいに帝の前に入って来た男がいた。
橘友雅だ。
「お呼びだと伺いましたので参じましたが」
「まずいものを見られてしまったな、おまえには」
「いえ、お気になさらず。これでも口は堅いのですよ、私は」
「それは私が一番よく知っていることではないか?」
「はっ、申し訳ありません」
口調は堅苦しいのだが、お互いの顔は和らいでいた。
そして帝の口から重たいため息が漏れる。
「・・・どうしても永泉には幸せになってもらいたいのだ。
 俗世を捨て、この世のしがらみを断ち切りたいと願う
 永泉の気持ちも分からなくはないが。
 人は一人では生きられぬからな。永泉ももう大人の年齢だ。
 永泉を任せられるような、そのような女性と巡り合ってほしいのだ」
「弟君を想う兄上の優しきお心ですね」
「ふふっ、まあ、そんなようなところだな。
 大人な年齢だと思うのだが、どうしても気になってしまうのは兄の嵯峨かもしれぬな」
「それならば、一人だけ心当たりがありますのでご安心下さい」
「ほう、それはどの者なのだ?」
「・・・今は申し上げない方がよろしいでしょう。
 近いうちに、永泉様の口から聞かれるやもしれませんから」
「・・・そうであれば良いのだが」
帝は無垢な弟が消えた先に、そっと目を向けた。

 

永泉は一気に内裏を駆け抜け、そして・・・。
知らないうちに足が向いていたのは藤姫の館の前だった。
「なぜ、私はこちらに・・・」
不思議でならないのだが、なぜか今自分はここにいる。
「いえ、本当は・・・分かっているのです」
永泉は呟いた。
「私は、あの方を想っているから」

帝の前で己の心の内を覗いた時。
見えた人物は龍神の神子、あかねだった。

彼女のいつも前向きで活発なところに、永泉は心惹かれていた。
つい後ろ向きになる自分の考えを神子に述べるとき、
自然とその悩んでいた物事は、
後ろ向きから前向きへと方向が変わっているのだ。
まるで、札をめくるかのように。
裏を向いていた真実が、神子が触れたとたんにくるりと見えていく。
そして、自然と回りはそれを受け入れることができる。
裏向きのまま、どの札を選べばよいのか悩む自分とはまったく違う。
そんな神子の不思議な魅力に、永泉は普通ではない感情を抱き始めていた。
あかねを想う日はないというほどに、いつも心から消えることはない。

「普通ではない感情」
永泉は声に出して呟いた。それは何か。
「・・・恋」

永泉は、はっとして口元を袖で覆った。
龍神の神子に恋をした。
そのことは既に明白だ。自分が一番分かっている。
そのような、許されない感情が自分に芽生えていたことに驚いたからだ。
出家した身分云々ではない。
自分は、龍神により選ばれた人に思いを寄せてしまったのだ。

「いけない、こんなことは」
袖の向こう側で小さく呟く。
早く想いを断ち切らねば。この恋心が進んでいってしまう前に。
毎日そう思っているのに、神子への想いは消えることなかった。
心を静める笛の音色も役には立たない。
強く、色の濃い、鮮やかな大輪の花は永泉の心から消えることなかった。

 

その時、なんと藤姫の館の門からひょっこり頭がのぞいた。
門の柱に腕をつき、きょろきょろと辺りを見回すその頭は、まさに神子のもの。
「うーんと、あっ、やっぱりいた! おーい、永泉さーん!」
大きく手を振ってこちらへ駆けてくる神子、あかね。
「みっ、神子・・・」
ぎょっとして他に言葉も出ない。
ちょうどあかねのことを考えていた、そんな時に彼女に会うなんて。
なんて間の悪い。
「あのね、なんとなく永泉さんが私を呼んでいるような気がしたの」
「私が・・・ですか?」
「うん。うーん、なんて言えばいいんだろう・・・上手く言葉にできないんだけどね」
人差し指をこめかみに当てながら思案するあかね。
「インスピレーション・・・って言っても分からないから、閃き、かな?」
「閃き?」
「そう。ここに永泉さんがいるんじゃないかなって閃いたの」
「それでお一人で出てこられたのですか?」
「あっ、やっぱりまずかったかな? 藤姫に一言言って来た方が良かったかも」
思い出したように慌てるあかねに、思わずくすっと忍び笑いをもらしてしまう。
こんな風に、まったくの自然体で自分と付き合ってくれるあかねが嬉しかった。
今まで出会ったことのない、そんな女性だったから。
「神子、せっかくですから歩きませんか?
 私と一緒ならば、藤姫も安心してくれるでしょう」
「そうだね、そうしよっかな」
永泉はあかねを連れて歩き出した。
音羽の滝へ向かって。

「神子、笛をお聞かせしてもよろしいでしょうか。
 あなたに、聞いていただきたいのです」
「ええ、お願いします」
いつものような微笑で、あかねはにっこりうなづいた。
「ありがとうございます。では」
あかねから少し離れたところに立ち、永泉は息を吸い込み笛を口に当てた。
流れる調べを風に乗せて、心に浮かぶ旋律を響かせて。
あかねは瞼を閉じ、一点の曇りのない永泉の演奏に聞きほれていた。
だが。
永泉はぱったりと中止された。
笛をゆっくりと下ろすと呟く。
「・・・やはり、だめです」
「永泉さん?」
永泉の眉間には深い皺が掘り込まれていた。
がっくりと肩を落とし、思いつめたような永泉の苦しげな表情。
それを見てあかねが心配げに近寄ってきた。
「どこか具合でも悪いんですか?」
「いえ、違うのです・・・私は・・・」
言葉にするのが怖かった。
だが、言ってしまわなければいけない。
意を決するように大きく深呼吸をしてから、永泉は口を開いた。
「笛を奏でれば、この心のざわめきが晴れると思っていました。
 ですが、やはり消えることはなかった。
 神子、この想いを口にすることを、どうか許していただけないでしょうか」
「永泉さん・・・」
ただならぬ永泉の雰囲気に、あかねはただこくりとうなづいくだけ。
まるで鬼気迫るよう。
いつもの穏やかな永泉はどこにもいない。
ひどく動揺して、それでいて焦っているような。
「それではお聞きください。
 私は・・・あなたに抱いてはならない感情を持ってしまいました。
 私のような罪深い者が、あなたに・・・その・・・」
先が上手く言えず永泉は苦しげに息を吐いた。
「ああ。なんと私は弱いのでしょう。自分の気持ち一つうなたに上手く伝えられず。
 これでは八葉の勤めも勤まらない」
悔しげに唇を噛む永泉。
「永泉さんは立派に八葉の役目を果たしてくれているよ。
 大丈夫、自分に自信を持って!」
そんな永泉をあかねはいつものように、力強く励ましてくれた。
そっと腕に触れ、力をくれるかのようにゆっくりとうなづいて。
その微笑みを見ると、永泉の性急になっていた心が鎮められていくようだった。
永泉の顔色が普段のような、物静かで穏やかなものに戻っていった。
「神子・・・ありがとうございます。
 私は、あなたのその言葉に何度救われてきたことでしょう」
永泉はそっと瞳を閉じた。
「この気持ちは止められませんでした。
 幾度笛を吹いても、経を読んだとしても。
 あなたのそばに、ずっと・・・ずっといたいと願ってしまう、
 この想いは消えることはありませんでした。
 水の流れの如き私の感情を、せき止めることは出来ません。
 神子、どうか私をお許しください。
 あなたのそばに、ずっといたいと願う私の気持ちを、どうか」
そこまで語ると瞼を開けた。
目の前のあかねは、びっくりしたように目を丸くして立っていた。
ほんのりと頬を赤く染めながら、しばらくじっと動かずにいたが。
不意にその強張った頬がにっこりと永泉に笑いかけた。
「ありがとう、永泉さん」
優しい声がした。
「私には、誰かを許すとか許さないとか、そういう権利はないけど。
 でも、私を好きになってくれた永泉さんの気持ちなら、受け止めてあげられる」
「ほっ、ほんとですか!? 神子・・・それでは!」
からんからん からん
永泉はあかねの手をぎゅっと握っていた。
笛は固い岩の上に落ち、乾いた音を立てて転がる。
そんなことは意に介さず、永泉は、ただただ、あかねの手を握っていた。
「神子も、私と同じお気持ちだと解釈してよろしいでしょうか」
「うん。私も永泉さんのことが好きだよ」
「ああ・・・神子・・・ありがとうございます」
そう言った永泉の瞳から、一筋の涙が光って落ちた。

 

翌日のこと。
再び永泉は帝の前に座っていた。
その顔つきは昨日とは打って変わった、晴れがましい顔だった。
憑き物が落ちた。そんな表現こそ相応しいかもしれない。
背筋も正しく、凛としたその姿勢は眩しいばかり。
清々しい弟の表情を見て、帝は悟った。
「どうやら、見つけたようだな」
「はい。私のすべてをかけてお守りしたいと思う方がいました。
 私は、ずっと、その方のそばにいたいと思います」
その相手が誰なのかも帝は分かっていた。
「もしもその者がこの世界から自分の世界へ帰ると申したときは?」
「その時は、兄上のそばから離れることになりましょう。
 心苦しいのですが・・・申し訳・・・」
「言うな、永泉」
謝ろうとした永泉の言葉を帝が遮る。
「おまえの心に決めたとおりに進むのだ。良いな?
 それが私の願うことなのだ」
「はい。ありがとうございます、兄上」
兄上と呼びかけられたことに嬉しそうにうなづきながら、帝は退席を許した。

そして今宵も永泉はあかねの元に来た。
これから毎日、どんなに忙しい日でも藤姫の館に来ようと決めたから。
怨霊との戦いで疲れた神子の体と心を少しでも癒すことができるのならば、
自分のせめて得意な笛を奏でよう。

静かに館の中へ入り、庭に立つ。
大きく息を吸い込み、笛を構えて、奏ではじめる。
心に浮かぶのはあの人の笑顔。
その人を守りたいと思う、自分の真っ直ぐな気持ち。
それらを音色にのせて、あの人に届けよう。


ああ・・・つらい・・・。久々にきっつい創作でした・・・。
この創作の構想ができてから完成まで一ヶ月(笑)。幾度断念しようと思ったか。
永泉様は私の八葉ランキングのTOPなので、なんとか創作を書きたいと思っていたのですが。
まさかこんなに時間がかかるとは・・・。
まさに永泉様は遙か版リュミエール様(笑)。
とにかく綾水は悩ませ抜いてますね、この作品で。ああ、ごめんなさい・・・。
でも、そういう真面目なところが好きなのですよー。
これでちゃらんぽらんだったら大変だわ、キャラ設定が・・・。
で。いちおーこの作品も誕生日モノなんですけど。どのあたりで誕生日だか分かりますか?(爆)